Hitmakerのスタッフによるリレーコラムです


桜も咲き、街路を淡い色で染め始めてきた。冷たかった風は次第に温かみを帯び始め、空に浮かぶ太陽は傾きを次第に戻しつつある。山々の白い冠は溶け、緑が芽生え始める。そう、まさに春を迎えようとしているのだ。
若者達は新たな門出を迎えて、気分を一新している頃でもある。形容するならば清々しいのだ。

そんな清々しさとは裏腹に、三十路を超えたむさ苦しい男について語らねばならないというこの状況。見苦しいかもしれないが、しばし付き合っていただきたい。軽く音楽を流しながらででも。

杣木氏と私は、プレイシティキャロット新宿店という、同業他社であるナムコの直営店で与太話をする程度の仲である。平成15年2月、私は職場を改め、このヒットメーカーで氏と再会した。

そういう付き合いがあったからとは言え、勤務してから2ヶ月しか経っていない若輩者に、このコラムが回ってくるとは。私は少々困惑した。夏には12周年を迎えるゲーム屋稼業の中で企画者の経験もある私としては、文章を書くことそのものには何の苦痛も労力も無い。むしろ歓迎するくらいだ。しかし、その与えられた題目がよりによって「俺の職務経歴書」となっている。

なぜこのように長々と、しかも終わりそうも無い前書きを垂れるのか。それはこの文章は実は「第2稿」だからだ。すでにこの題目でコラムを書いているのだが、内容が非常に危険であるため、もう一度書かなければならないハメになった。危険を孕まないように仕切りなおしてみたい。

まず、職務経歴書とは何かを説明しておかなければならない。これは、転職に無縁の人間には全く必要の無いもので、そうでない人間には重要なものだ。履歴書にも「学歴・職歴欄」というものがあるが、それはいつ何時にどの学校を入学・卒業した、どの会社に入社した、などを簡潔に書くだけのもの。職務経歴書は、いつ何時に、どこの会社でどのような仕事をしたのかを出来るだけ克明に記述するものだ。

私は19歳からゲーム屋稼業をはじめて、今年の夏で丸12年を迎える。その間、ヒットメーカーを含めて実に6つもの会社を渡り歩いた。関係したゲームソフトの数は未発表作を含めると20ほどになるだろうか。

それらについて、どのように関わったのかを書いたものがこの世界に4つ存在する。常識として考えれば、転職するたびに必要な書類なのだから5つあるはずだ。理由は、1社だけ社長が友人であったため、書類が必要なかったからだ。ゲーム業界は一部でこのようないい加減な部分が未だに存在する。

さて、では私の職務経歴書の内容を…述べたいところだが、ここで二律背反とまでは行かないが問題が生じる。克明に書けば書くほど危険性を増大させてゆく。書かなければ書かないほど、杣木氏が希望している「経験豊富な話題」から遠ざかってしまう。当り障りの無い程度に、何とか書いてみたい。

前述したが、私は19歳の夏からゲーム業界に身を置くようになった。当時、私はまだ専門学校生であり、講師の伝で運良くゲーム会社に内定していた。その会社にアルバイトという形で入ったのだ。

はじめ私は、修行という形で様々なゲーム開発に必要なツールを作成する。巷では「くそゲー」と言われるような作品に使用するツールを作ったりもした。そして約半年後、ちょうど専門学校の卒業を1・2ヶ月前に控えた頃に、ようやくサブプログラマーとして1本のゲームソフト制作に参加する。脱衣ビリヤードという、なんとも微妙なジャンルのゲームではあったが、私にとっては処女作になった。

その後、私はメインプログラマーとしてPCエンジンのゲーム開発に着手する。制作は難航したが、メインプログラマーとしての初めてのゲームであり、また、会社内で企画を起こしたものであったので、感慨にひたることができた。

それからしばらく、外部の企画でゲームを何本か作成する。もともと最初に在籍していた会社はパチンコゲームで一部には名前が出ていたので、私もパチンコゲームのプログラムを3本ほどやった。

他にも、お笑いタレントを題材にした格闘ゲームや、家庭用ゲーム機では名前の出ていた釣りゲームをWindows用にアレンジしたものなどもやった。釣りゲームについては私一人で全てのプログラムを書かねばならなかった。

ここで私自身のゲーム制作についての拘りを述べておかなければならない。私の最終目標は自らが企画し、自らが開発したゲームを出すことだ。

6年在籍した会社に別れを告げることになった理由は「作りたいゲームを作ることが出来ないから」だった。

それからすぐ、チャット仲間が在籍する新興のゲーム会社に転職する。ここでは当時としてはまだあまり流行っていなかった「レベルエディター」という概念を導入して、某ハードボイルド作家がシナリオを起こしたアクションアドベンチャーを制作していた。私はここでスクリプトという、簡易言語によってゲームそのもののデータを作成したり、スクリプトが機能できない部分をプログラミングしたり、効果音をゲーム上で正しく再生できるように調整したり、物に拘るハードボイルド作家が出したゲーム中で使われる銃器の説明が余りにも乏しいので、正しい説明を書いたりと、プログラム以外の仕事までやることになる。

この会社は私が入社して1年10ヵ月後、ゲーム開発からWeb開発に移行することになったので、私は「ゲームが作れないなら」という理由で会社を離れた。

次に入った会社は、初めに入った会社のディストリビューターだった。自社開発も行っているのだが、その中のチームに組み込まれた。しかし、ここで私にとっては非常に精神的に悪い状況に立たされる。

「どうしても許せない人間」という人が、数年も仕事をしていれば出てくるものだ。運悪く、そのチームの上長は私にとってどうしても許せない人間であったのだ。著しくモチベーションが下がり、結局、この会社には8ヶ月しか在籍しなかった。携わったゲームは無いわけではないが、私の書いたプログラムが使われたかどうかさえ判らない。この8ヶ月の部分は履歴書には書かれていて、職務経歴書には書かれていない部分でもある。

怠惰な日々の中、先述した会社社長でもある友人と数年ぶりに再会し、誘いを受けたので、あっさりと会社を飛び出した。面白いことに、2社は300mも離れていない位置に存在する。

そして友人が社長を務める会社に、プログラマー兼企画として入社する。企画の経験は全く無い。しかし友人は、私の数少ない趣味である創作の事を良く知っている人物でもあり、そのような位置に私を置いてくれたのだ。

ここは携帯電話コンテンツとしてのゲーム企画・開発を行っていた。私は手始めに、すでに起こされていた企画の体験版をプログラムした。続いて、とある会社の企業プレゼンテーションを兼ねたコンテンツ制作ということで、ゲーム企画を書くことになる。しかし、様々な障害が発生し、最終的に開発のゴーサインを出すべき携帯電話会社がなかなか首を縦に振ってくれない。

薄給だったことも重なり、私はこの会社を4ヶ月で去ることになる。

1ヶ月ほど、ネットゲームばかりする生活が続く。金が底を尽きかけたとき、ようやく重い腰を挙げて仕事を探し始めた。今まで私は、人伝に仕事を紹介してもらっていたのだが、早々何度も仕事にありつけるわけではない。冷静に考えてみると、「就職氷河期」と言われ始めた年に専門学校生が簡単に就職できること自体、運が良かったのかもしれないのだが。私は奮起して、ある会社の中途採用募集に応募した。

それまでの経歴が初めてものを言ったのはこのときだった。私は初めて自分の力だけで転職に成功した。

ここで私は再びプログラマーとして、アクションアドベンチャーゲームのAIプログラムを任されることになる。詳細がドキュメンタリーとして書籍にもなっている。私に関しては大したことが書かれてはいないが。

真に申し訳ないが、ここを1年8ヶ月で去ることになった理由は伏せさせていただく。

そして、佐藤拓氏の紹介でヒットメーカーの門を叩く事になったのは去年の12月。人事の手続き上、就職は今年の2月になった。

以上が、私の職務経歴になる。期待に添うような内容だったのか、自信が余りない。私の場合、ゲームのタイトルを全く書かずに記述すると、とても曖昧なものになってしまう。しかし、それを書いてしまうと急激に危険な内容になってしまう。どうか、ご容赦いただきたい。

最後に一つだけ言うとするならば、もう二度と職務経歴書は書きたくない。

では、重苦しい駄文はここまでとして、某プロジェクトでヒィヒィ言いながら頑張るプログラマーの伊藤氏に「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!」という題目でバトンを渡したい。


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■原田 拓(プログラマー)
ハイハイ、WCCFチームのプログラマー、原田さんでございます。
前回の杣木さんと同じく“さすらいのゲーム人”で、過去数々のゲーム開発会社を渡り歩いてきた猛者であります(コラム参照)。プログラマーとしての腕は確かなんだけど、過去携わってきたタイトルが「摩訶●訶」だったり「松村●洋伝」だったりする・・・。今後の「WCCF」大丈夫か!?あ、あと趣味ベースを弾いてたりもするらしい。

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