91年10月、セガ本社でゲームにチャレンジするアイルトン・セナ。その後ろに設計担当のY、Iらが写る。

現在残る初期スケッチ。これほど大きいドライブゲームは今までなかった。


FRP素材でボディを作り、ユニットを取り付けていった。


93年のAOUショーの様子。巨大モニターに映し出される映像は圧巻だった。

プロローグ
91年10月、セガ本社にF1レーサー、アイルトン・セナが訪れた。当時、F1ブームの真っ盛り。彼は家庭用ゲームの打ち合わせで招かれたのだが、関係者以外立入り禁止とされた会議室で、メカトロの一部のスタッフだけではセナに会うことができた。それが今思えば、「Virtua Formula」プロジェクトのスタートだった…。
バーチャレーシングを越えるものを
92年、セガ初のフルポリゴンF1ドライブシミュレーターゲーム「バーチャレーシング」がリリースされた。モニターに映し出されるリアルな映像には、独自開発されたCGボードを使用。それは業界初の試みだった。F1の実況中継さながらにライブモニターに映し出されるハイライトシーンが特徴で、よりリアルな横Gを再現したり、ハンドルからのリアクションがあり、体感効果は抜群だった。セナとの出会いから1年、ようやく形あるものができあがったのだった。
8人で競い合う大型アミューズメント
その年の秋から、バーチャレーシングをバージョンアップさせたゲームの開発が始まった。8人のプレイヤーが同時に参加できるという大型アミューズメントマシンで、画面も74インチ。8つの画面を並べると10メートル余り、それらを横断するようにフォーミュラーカーが走っていくのだから、その迫力といったらなかった。しかし、問題はプレイヤーが乗るマシン本体だった。どういう仕掛けで本物っぽさを出すのか、開発チームの苦悩が始まった。
さまざまな要望を可能にしたマシン
「本物と同じように、シートに座るとちょっと身体が寝そべる感じに」「しかし誰もがゲームに参加できるよう、乗り降りは簡単にしよう」「筺体の動きはより本物っぽさを出したい」「ハンドルのリアクションも手応えのあるものに」「ドライバーと同じ視線で画面が見られるようにノーズが少し画面にかかる程度に」と、さまざまな要望が出された。マシンの開発を担当していたIとYは頭を悩ましながらも製作を続けた。そして、ボディには高い強度を誇るFRP素材を採用、取り付け関連性のあるパーツを可能な限り少なくするために、ユニット化していった。ボディにハンドル・アクセル・ブレーキ・ムービングの支点とが一体になったかたまりを取り付けていく。ひとつひとつ手作りの作業となった。
スタッフさえもゲームのとりこに
こうしてできあがったのが、シート部分が前後スライドし、身体がすっぽり収まるマシンだった。低い車高はドライバーの視線も確保した。また、エアシリンダーでボディが動き、マシンの揺れを再現。ハンドルのリアクションも好評だった。スタッフ内の評判も上々で、みな自分の仕事が終わると、製作現場に集まってきて、プレイヤーとしてゲームに挑んだ。「バグを見つけたり、マシンの点検のためじゃなくて、ただゲームをしたいために来ていた人がほとんどで…(苦笑)」とIは当時を振り返る。完成は目の前だった。
誰もがこの臨場感に狂喜した
アテンダントがスタート間近だとアナウンスする。スピーカーからは低音のエンジン音が流れる。旗が振られるとモニターに映し出されたフォーミュラーカーが一斉に飛び出していく。快調なエンジン音に混じって、コーナーを回るとタイヤの軋む音がする。8人のプレイヤーはそれぞれステアリングの手ごたえを確かめながら、画面をにらみ続ける・・・。
サーキットを走るこのゲームは、F1と同じ臨場感が体験できると評判となり、1ゲーム500円という値段ながらも行列が絶えなかった。
セナが驚くゲームを目標に
94年5月、突然飛び込んできた訃報に世界中が沈黙した。アイルトン・セナがサンマリノGPでクラッシュし、帰らぬ人となったのだった。甘いマスクと輝かしい戦歴から「音速の貴公子」とも呼ばれたこの稀代のレーサーは、34歳という若さでこの世を去ったのだった。以前からF1フリークだったIも驚きを隠せなかった。メカトロのスタッフも同様だった。3年前、自社の会議室で言葉を交わしたセナが死んでしまった。重苦しいときが流れた。「しかし」とIは思った。「セナをも驚かせるゲームを目標にがんばってきた。その結果として、バーチャフォーミュラがあったのだ」と。