ドリームパレスの初期スケッチ。ゲームセンターのイメージまで一新したこのゲームは、現在、パート2が登場している。


鉄骨で組まれた土台部分。この上に1トン以上の筺体を乗せてまわすのだからその苦労は並ではなかった。


出来上がったばかりのドリームパレス。左から開発に携わった設計の吉本昌男、電気の伊藤太、設計の石井誠司の面々。


92年に行われたAOUショーの様子。きらびやかな装飾が人目を引き、たくさんの人が訪れた。

プロローグ
1985年、米ドル是正を目的とした「プラザ合意」から、日本におけるバブル景気が1990年まで続く。その間、好景気が続き、誰もが小金持ちになり、世の中全体が浮き足立った。物がよく売れ、なかでも高価なものがもてはやされた。ゲーム界も同様、ド派手で衆人の目を引くマシンが多く開発されていった。それらは世の中の人々が欲した、この時代でしか生まれないものだった…。
ドリームキャッチャーをもっと目立つものに
好景気に沸く80年代後半、セガでもさまざまなゲーム機の開発が進められていた。目下の人気ゲームといえば、大ヒットとなったUFOキャッチャー、ドリームキャッチャー。その次をどうするかをメカトロ研は考えていた。どんなマシンがいいのか…。
開発メンバーの一人、土手がひらめいた。筐体が回転すればどうか?それなら装飾が派手なメリーゴーランドはどうか? どんどん新しいアイデアが追加されていった。
それが「ドリームパレス」だった。
マイナーなゲーセンを明るく
当時、ゲームセンターといえば、薄暗い=不良のたまり場、といった決して明るいイメージではなかった。セガを始め、ゲーム業界など、今後の発展を考える人々にとって、ゲームセンターのイメージチェンジは大きな課題であった。どうすればカップルやファミリーが集まるようなアミューズメントスペースになるのか、ゲーム機を開発する以上に問題となっていた。
1千数百万もする豪華なマシン
メリーゴーランドをイメージした吉本・土手ら開発チームは、筐体自体が回転する仕掛けを考えた。土台となる部分を鉄骨で組み立ててみたが、2トンという重さになるマシンを回転させるのは至難の業だった。また、メリーゴーランドのように電飾をつけ、目立つような派手な装飾をしていった。
だが、開発チームには不安があった。価格は1台2000万円弱という高価なもの。ゲームセンターに搬入するのも部品ごとにバラさないと難しい。さて、ゲームセンター側は買ってくれるのか?折しもバブル真っ盛り。開発費は潤沢にあったが、ゲームセンターに置かれなければ、今までの開発の苦労も泡と消える。そして、遂にドリームパレスをお披露目する91年のAOUショーがやってきたのだった。
子供から大人までゲームに群がった
幅が5メーター近くもあり、きらびやかな電飾が輝くドリームパレスは、広いイベント会場の中でもひときわ目を引いた。そんな巨大なマシンがメリーゴーランドよろしく回転するのだから注目されないわけがない。子供から大人までゲームに群がり、回転する台に乗り、一緒に回りながらぬいぐるみをゲットしていった。それでも吉本を始め、ショーを訪れた開発チームは安心していなかった。「本当にゲームセンターが買ってくれるのか?」 神のみぞ知ることだった。
ドリパレで明るく清潔なアミューズメントパークへ
そんな心配は杞憂に終わった。ゲームセンター側は単体では回収ができないのを承知で、高価なドリームパレスを続々と購入していった。ほとんどが大規模なゲームセンターだったが、外からも見える位置にそれは置かれ、きらびやかな姿が外を歩く人にも存在をアピールし、ゲームセンターへ誘った。「人目を引いてゲームセンターへ呼び込むゲーム機」としてドリームパレスは賞賛され、それまでのゲームセンターのイメージも一掃した。ドリームパレスが置かれた店内は、電飾で明るく輝き、それに併せてキレイで清潔なアミューズメントパークへと変貌していった。
ゲームセンターの概念さえも変えたゲーム機。開発費や高価な値段はこの時代だから可能となったといえる。バルブに咲いたあだ花は、デザインチェンジを重ねながら、今も現役で回り続けている。