プロローグ
1995年、プリント倶楽部、通称・プリクラは世の中にブームの嵐を巻き起こしていた。女子高生の記念写真替わりだったのが、いつしか大人も巻き込んでの大ブームとなり、一緒にプリクラを撮り、手帳に貼ったり、交換したりするなど、使われ方も多様化した。なぜそれほどの流行となったのか?この一大ブームになったゲームの背景を考えてみたい。
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最初はみんな期待もしなかったプリクラ
ある日、セガに持ち込み企画があった。それは写真を写してすぐに現像する機械であった。「これをどう使おう……」。予想がついたのは、記念写真代わりに、または顔写真を撮影して名刺に貼ってビジネスツールとして…、そのくらいだった。
機械を内包する筐体をつくり、「プリント倶楽部」(以下、プリクラ)と命名した。最初に置かれたのは東急ハンズ。名刺に貼るために撮影する人がいるだろう。しかし、まったくというほど人気は出なかった。
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またたく間に女子高生たちに人気が
その後、テレビのバラエティ番組で人気タレントが取り上げたことでプリクラは一躍脚光を浴びることになった。まず飛びついたのは女子高生だった。友達と撮ることで仲間であることを確認し、手帳には「友達が多い」証しとしてプリクラのシールがベタベタ貼られ、「友達である」あるいは「友達になった」しるしとして、シールを交換しあった。プリクラは女子高生にとってのコミュニケーションツールとなる社会現象を巻き起こしたのだった。ヒットに火が付いたプリクラは、大人や小学生の子供たちにも広がっていった。気が付けばプリクラのゲーム機は、ゲームセンターの入口に置かれるほどの人気ゲームとなっていたのだった。
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続々とプリクラのゲームも進化した
一大ブームとなったプリクラは、キャラクターや観光地にちなんだ「ご当地」フレームなどフレームの種類が増え、あたかも人気タレントと一緒に写ったように見えるプリクラも登場した。同時にネームシールが作れる「ネーム倶楽部」、顔入りのカレンダーが作れる「カレンダー倶楽部」、自分の顔と名前が入ったスタンプが作れる「スタンプ倶楽部」、6連写になっている「MOVIE CLUB」と、プリクラの原理を応用して続々とマシンが誕生した。
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文化を創ったゲームに立ち会えたという幸運
そして、開発を担当した土手には取材が殺到、マスコミの寵児となり、テレビや雑誌、新聞などさまざまなメディアに登場。プリクラのヒットの秘密を語った。
「それまでは自分の顔をキレイに撮る手段は、セルフタイマーか人に撮ってもらうくらいでほとんどなかった。キレイに写っているかどうか確認しながら撮れるプリクラは画期的なもの。また、ソフトのバグによって若干縦に長く写ることになり、『痩せて見える』とうわさになってまた人気に。そんな思わぬ副産物もありました」と土手。
プリクラは確かに“文化を創った”ゲームだった。そんなゲームの開発に立ち会えたことの幸運を土手は想った。
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写真の価値観までも変えた
現在、携帯電話にカメラ付きが一般的な機能になりつつある。写真を撮る、撮られるという行為はすでに“日常”になってきた。1985年に使い捨てカメラが出るまで、写真はハレの日を記録するものだった。しかし、それでも写真は、現像するまで“絵”は出てこない。ポラロイドカメラは当時はまだ高価なものだった。人が写真を撮ったり、撮られることが日常になったきっかけは、この「プリント倶楽部」だったのではないか。土手はそう確信している――。
追記:プリクラは今、衣装を着て撮影するゲーム機となってゲームセンターに設置され、変身願望までも満足させるマシンとして人気を誇っている。一方、台湾や韓国へ輸出され、かの地でもブームを巻き起こしている。
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